2015年の『あん』に続き、河瀬直美監督と永瀬正敏さんが再びタッグを組んだ映画『光』が5月末に公開されました。
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弱視のカメラマンと、映画の音声ガイドを制作する女性によって織り成されるストーリーに、生きることの意味を深く考えさせられる…そんなメッセージ性に溢れた作品です。
生きていく中で失ったものを忘れられず、執着し続けてきた人々はどのように喪失を乗り越えていくのでしょうか?
前回のまとめ
前回は、自律と自立の違い、手助けと甘やかしの違いについて解説しました。
他人の助けを借りずに自分の決めたルール通りにこなしていくこと=「自律」
自己アイデンティティを自分ひとりで確立すること=「自立」
でしたね。
その上で「自律」や「自立」をする努力もせず、他人任せにするのは「たよりにしている」のではなく「甘えている」だけだ、と説明しました。
今回はこの「甘え」を掘り下げながら、愛情と愛憎の境界線はどこにあるのかをお話しします。
自分で解決しない女性たち
私は以前、とあるSNSの恋愛相談コミュニティーを管理運営していました。
年間2千人以上におよぶ方々の恋愛相談を承っていたのですが、そこには本当に多くの「束縛をしてしまう女性」がお悩み相談に訪れていたんです。
彼女たちが言うには、自分と一緒でない時間に浮気されるんじゃないか、という不安がどうしても拭えない。
だから、それこそしょっちゅうメールをして何をしているのか把握していたい、なんなら他の女性の連絡先は全部削除してほしい、と。
彼女たちに共通しているのは、「不安状態」の緩和を求めているだけで、「不安の根本原因」の改善には目を向けない、ということ。
なぜなら、それをすると、自分の心の深い闇に向き合わなければいけないからです。
相手の愛情を信じられないのは、結局、自分は愛されるに足る人間だと思えないということです。
自己評価が低い理由は、人によって様々。
親にちゃんと愛されなかった、過去にいじめを受けたなど、何かしら原因があってのことでしょう。
原因を見つけ出し、自分は愛される人間なのだと思えるように、自己承認を積み重ねていく努力が必要となってきます。
でも彼女たちはそういった努力ではなく、恋人の努力によって代替的に解決しようと試みるんですね。
愛憎と愛情の違い
自分が解決すべき問題や責任を、伴侶や恋人の存在や対応によって収めようとした場合、上手くいったら常習的な甘え(特に退行)を生みます。
そして上手くいかなかったとき、伴侶や恋人に責任転嫁して憎悪したり攻撃したりといった事態を招くのです。
例えば、恋人が仕事中でメールできず、返信がないことへの不安と寂しさから、自傷行為をしたり自分が浮気に走ったりする。
「あなたが私を寂しがらせるからいけないのよ」
と、相手のせいにして責め立てるんですね。
このように退行あるいは依存する自分を相手に救ってもらいたいという欲求が、期待通りの結果にならなかった際に、「愛憎」へと変換されてしまいます。
相手は、欠点や弱点を持つ一人の人間であり、なんでもしてくれる理想の親ではありません。
等身大の相手を受け入れ、一方的に支えてもらうのではなく共に支え合いながら、手を取り合って生きていこうとする想い、それこそが「愛情」です。
「愛憎」と「愛情」の違いはこのように、自分しか見えてないのか、あるいは自分と相手を見据えているのか、という点にあります。
まとめ
愛憎と愛情の境界線、ご理解いただけましたでしょうか。
自立するための努力は、とてもつらいと思います。
見たくないもの、思い出したくない出来事、知らずにいたかったこと、それらを頭だけでなく心から受け入れるという過程を通して、初めて必要な自己啓発が見えてくるでしょう。
等身大の自分を認めてこそ、等身大の相手を認めることができる。
それは、対等な立場で恋愛をする大人の女性になるために、必要な一歩なのです。