誰にも言えない、けれど誰かに言いたい、そんな内緒の悩みやモヤモヤ、しょうもないグチからやりきれないつらさまで、穴を掘ってこっそり叫んでみたい気持ちを発散する、「感情の吹きだまり」……。そんな場所がこのコーナーです。あなたのやるせない気持ちを、安心してブチまけてみませんか? 雨宮まみが聞き手をつとめます。長文の投稿歓迎いたします。
(かおる/女性/40代)
はじめまして。もうずっと、ずーっと昔から悩んでいる事があります。それはもういい歳をして……と自分でも思うのですが、“容姿”に対してのコンプレックスが昔から強いなと感じる事です。
私は姉、兄、自分の3人兄弟です。上の姉は私とは全く似ていなく、化粧を全くしなくても写真に写っても全然、きれいな感じです。ハッキリ言って、姉は美人だと思います。父は昔からよく家族の写真を撮ったりしているのですが、子供の頃から感じていましたが、姉の写真をよく引き伸ばしてアルバムに貼ったりしてます。私や他の家族の写真も勿論、撮りますが、姉と比べるとやはり撮り方が私とは違うなあ……と思い、内心、10代や20代の頃などは特に比べて嫉妬というか、妬ましく思ったりしました。
そのせいなのかは分かりませんが、人は見た目が全てではない……と解ってはいるのですが、今の歳になっても、人と自分の容姿を比べちゃ落ち込むというか、羨む……という気持ちはなかなか消えません。女性なので、ある程度は幾つになってもあるかとは思いますが、先日、私の姪にあたる子を含めた家族や兄弟と外での食事会があったのですが、その姪は客観的に見ても、カワイイし、きれいだと思います。実際に、やはりまた私の父が、「〇〇はAKBにでも入れるんじゃないか?」というような事を言っていました。私も彼女なら、入れるんじゃないかなと思います。その時に、斜め向かいの席に座ったのですが、何となく、彼女に対して、叔母さんという立場の私は彼女に対して、やはり、対抗心のような嫉妬というんでしょうか……元々、私はきれいな女の人などをじーっと見てしまうクセがあるのですが、その時もマジマジと見てました。やっぱり羨ましいなという気持ちで見ていました。
多少は誰にでもあるのかなと思いますが、何かいい歳をした自分、しかも姪に対して、こんな感情を持つなんて、何て自分は心が狭いのだ……と後で自己嫌悪になりました。一体、自分はいつまで見た目にこだわるのだろうと……情けなくなりました。もうそろそろ、そういう感情から少しは解放されたいなと思うのですが、どのように気持ちを切り替えていったらいいのか。今更、整形をするというのも考えられません。どうかよろしくお願い致します。
(※投稿内容を一部、読みやすいように編集させていただきました。)
飲まずにいられない感じの愚痴、入りましたー! と、ありもしない厨房に声をかけたくなる愚痴、いただきました。これはお酒を飲まなければ始まらないですよね。開けましょうか、美しいピンク色のシャンパンとかを。うすーいガラスの、ほそーいグラスに注ぎましょうか。ラズベリーとか入れちゃいましょうか。まぁ、飲んでください。
美しさについて、知人が発した忘れられないひとことがあります。「自分のいないところで『あの人、綺麗だよね』と噂されるような美人になりたい」。人生で、まぎれもない真実を過不足なく言い表しているな、と思う言葉には何度か出会いましたが、これはそのひとつです。「美しくなりたい」ことと、「その美しさを羨望されたい」ことが、両方入っている。そのことが「ああ、その通りだなぁ」と思えたのです。
美しさへの憧れ、羨望ってものすごく強烈なものですよね。普段なら、事実上不可能なことについてはある程度諦めがつくのに、美への憧れだけは胸の炎を消せないというか、焦げ付くような気持ちがいつまでも残るように思います。理想の通りではない自分を受け入れて、気に入って生きていこう、と前を向いていても、時折、不安で足元が地盤沈下を起こしそうになります。「いい歳なのに」とかおるさんもおっしゃっていますが、本当に、だいぶいろんなことに諦めや折り合いがついた今でも、このことに関してだけは「これでいいのか?」「こんな気持ちがまだ自分に残っていたのか」「いつまでもこんな気持ちを味わい続けなきゃいけないの?」と感じます。
「人が不快になるような見た目じゃないから大丈夫だよ」「誰かと比べてたらいつまでもつらいままだよ」「自分に自信を持って」……それらの言葉は正しいかもしれませんが、そういう言葉が助けにならないときもあります。あきれるほど単純な言葉に救われることもあるのに、特に美に関して、私は説得力のある言葉をなかなか思いつけません。美、というか、見た目、というのは、自分にとってどうかという以上に、世の中で重視されているからだと思います。
欲望は抑えようとしてもなかなかうまくいきません。かおるさんがもう、美しさに振り回されるのはこりごりだ、とお感じなのはよくわかりますが、「人の素晴らしさは見た目だけではない」なんて、私は言えません。見た目の悩みこそ、外見ではなく内面の問題だからです。「誰かよりも自分は醜い」という気持ちは、程度の差こそあれ、病気のように多くの人の心を蝕んでいます。「自分はブスだから」と言う、ブスではない女の子を私はたくさん見てきました。その子たちが嘘をついているとは思いません。その子たちの苦しみが嘘だとももちろん思わない。けれど、客観的に決して醜くないという事実は、その女の子たちを1ミリも救っていませんでした。内面が素晴らしいということも、やはりその女の子たちを救っていなかった。
「本当はかわいいのに」なんて、意味がないんです。その子たちは誰かに「かわいくない女の子」として扱われたことがあり、自分でも自分のことを「かわいくない」と認識している。かわいい女の子をまぶしく思い、自分の容姿を振り返っては苦しく感じている。かおるさんが書かれた、姪御さんがお父様にほめられた場面は、とても象徴的で、まるで映画のワンシーンのようです。かわいらしい姪御さんを見つめながら、かおるさんがどんな思いでいたか。そして、姪御さんをほめているお父様は、かおるさんのそんな内面には今も昔もまったくお気づきになっていないのでしょう。
恥ずかしい告白をしますね。私は38歳ですが、今年、『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメに出てくる、綾波レイというキャラクターのコスプレ衣装を買いました。大学時代から観ていた作品で、綾波レイの設定は14歳の美少女です。当時、多くの人の心を鷲掴みにしたキャラクターでしたし、今でも現役で鷲掴みにし続けています。綾波レイのコスプレをする人は、昔からいました。けれど、私は、自分が綾波レイのコスプレをしてもいいなんて思ったことは一度もありませんでした。したいか、したくないか以前に「許されていない」と感じていたのです。当時は「あんなのはかわいい女の子にしか許されてない」と思っていましたし、年齢を重ねるにつれ、「コスプレは若い女の子しかしちゃいけないものだ」と思い始めました。そして、見た目的にも年齢的にもアウトだと考えていた地点に自分が来たとき、ふと、やってみたくなったのです。
深夜にamazonで注文しました。頭につけるインターフェイスという小道具も一緒に買いました。びっくりするような速さで届きました。十年以上も手出しできなかったものが、まとめて一万円以内で、三日以内にお届けされたのです。たったこれだけのことを、なんで「しちゃいけない」と思っていたんだろう、と思うくらい、あっけなかった。
私はそれを、家でひとりで着ました。面白かった。38歳の女が一人で綾波レイの服を着てる、という状況が自分でもおかしくて一人でゲラゲラ笑いました。私は写真が苦手ですが、これは撮っておこうと思って自分で写真を撮りました。本当に楽しかったし、38歳の綾波レイは、案外悪くないように思えたのです。美しいとか醜いとかをポーンと超えていく力が、「38歳の綾波レイ」にはあったんですよね。それがなかったら、写真なんて撮れなかったし、「こんな無駄なもの買って、無駄なことした」と自己嫌悪に陥っていたことでしょう。
なんでこんなしょうもないことが、あんなに楽しかったんだろう、と考えますが、それは「美しさ」という枷に縛られて、自分がしてはいけないと思っていたことをしたという解放感や、自分はそれができる人間だった、という発見、そして何より、衣装というインパクトの強いものの中に自分が飲み込まれていく感覚が楽しかったんだろうなと思います。衣装を着た自分は、自分ではないんです。その「自分ではない自分」が、日常空間にいる。そのことは異様であり、同時にとっても面白かったんです。それは、まぎれもなく自分が「他者の視線」という評価の軸からすり抜けることができた、という体験だったのでした。
その体験をして気づいたのは、外見についての苦しさの第一歩に「きれいになりたい」とか「かわいくなりたい」とか、そうした気持ちを自分なんかが持つのはおこがましい、という思いがあった、ということでした。
もちろん、そんな気持ちがないのなら、無理に持つ必要もないです。きれいになることが正しいことのように言われている世の中に巻き込まれる必要はありません。でも、私の中にはあったんですよね。この歳でも、きれいとかかわいいとか、そういうものを求める気持ちが。そういう気持ちの中で、いちばんやっちゃいけないと思っていたことが「綾波レイのコスプレ」だったんです。それをやった瞬間に、パッとはじける何かがあった。
かおるさんが、いま、いちばんやってはいけないと思っていることは何ですか? もしも、着飾ってみたいとか、プロにメイクしてみてほしいとか、そういうことを「やってはいけない」と思っているのなら、ぜひそれを一度やってみてください。そういうことをしたら、より自分の外見と向き合わなくてはならなくなる、他人の美しさが妬ましくなるように思えるでしょう。けど、絶対にやってみたほうがいい。「自分ではない自分」に変身する時間を、一度作ってみてほしいんです。必ずしも、美しくなる方向でなくてもいい。とことんだらしなくするのでもいい。自分が無意識に決めている自分の枠組みから少しはみ出してみる、ということをしてみてほしいんです。普段自分がやらないだろう、と思っていることを、なんでもいいからしてみる、という程度のことでいいんです。
「自分ならしないだろうな」ということは、「してはいけない」ことではないんです。そして、「自分ならしないだろう」ことを、人は「自分がしたいか/したくないか」よりも、他人から見た自分が「自分らしいか」という基準によって決めていることがあります。はみ出したらぎょっとされる。「一体どうしたの?」と言われる。でも、「一体どうしたの?」と言われるようなことをしてみて初めて、自分が「見られる客体」ではなく、「自分のしたいことをする主体」になれることを実感できる、ということも多々あると、私は思います。
「AKBに入れるんじゃないか?」と言われたいと、私は思いませんが、AKBの衣装は着てみたいと思います。ババアが気持ち悪いとか、何を言われてもかまいません。着たい衣装を着て笑っている人の顔は、絶対にいい。私は最近ようやく、人に撮ってもらう写真で自然に笑えるようになりました。笑いじわもあるし、笑いすぎて変な顔になっていることもありますが、その顔が好きになりました。長年、写真を撮ってもらうときに自然な表情ができず、今もひきつった顔ばかりですが、友達が撮ってくれる写真でだけは、自然に笑っています。38歳にして初めての境地です。これまで、私は自分の「自然な笑顔」を見たことがなかったんです。
自分を好きになる、というのがどういうことなのかよくわかっていませんでしたが、好きという気持ちは、美しさの概念なんかぶっ飛ばしていくものです。人は、美しくない人のことでも愛しますし、誰よりもあなたが好きだと言ったりしますよね。その気持ちを自分に対して持てたら、自分が多少美しくないことなんて、わりと平気になるんだなぁ、と、少し理解できたような気がしました。それができたのは、ばかばかしいことをやってみたから。そして、そんなばかばかしいことをする自分を受け入れてくれる友達がいたからです。
品のある文章を書かれ、心に醜いものを抱え込みたくないと、苦しい思いを吐き出してくれたかおるさんが、ご自分のことを、美しさなんてどうでもよくなるほどに好きになれますように。
最初から自分のことを自然に愛することができなかった人間にとって、人生は自分を愛するための冒険であり、それをする過程で他者への愛を知ろうとする冒険でもあると私は思います。そして、いろんな思いをして勝ち取った「好き」という気持ちは、そう簡単に揺らぐものではないんじゃないか、と思うのです。
みなさまの愚痴を、雨宮まみが「穴の底」にてお待ちしております。長文大歓迎!
恋愛相手の愚痴も、職場環境にまつわる愚痴も、誰にも言えない愚痴も、「スポーツジムのおじさんの汗がキモイ…」みたいなしょうもない愚痴も、なんでもござれ。大なり小なり吐き出して気を楽にしませんか?
「どうしたらいいでしょう?」のような相談は受け付けておりません。ごめんなさい。
「キレイになりたい!」と言えないあなたに。
『女の子よ銃を取れ』
他人の視線にビクビクしたくない、自分らしく堂々としていたい、かわいい、キレイと言われてみたい……そう思っていてもどうすればいいのかわからないし、「キレイ」への道が怖くてたまらない。
キラキラした「キレイになりたい」本を手に取ることすら怖いと感じるくらい、「キレイ」が重荷になっている人のための、自意識や他人の視線、自分の視線を解きほぐす本です。
雨宮さんより一言:
何をしても、何を買ってもうまくいかない、変われないしパッとしない……。そんな悩みは、本当は多くの人が持っています。それ以前に何をすれば、何を買えばいいのかもわからない人だってたくさんいます。この間まではわかっていたのに、急にわからなくなってしまった人も。そんなときに、自分を取り戻し、新しい自分を作り上げるヒントや、気持ちの持ち方の軸のようなものがあればいいなと思って書きました。落ち込んだときのおともにしていただけると嬉しいです。
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