第1・第3水曜日更新
作・みよろり
彼女はいつも独りだった。教授のつまらないうんちくを聞かされる英文学の講義、食堂のテラス席でハーブティーを飲みつつ大学のキャンパスを眺める昼食、テニスコート脇の小さな池の縁を散策する放課後、いつだって独りきり。
彼女は時間を持て余すと、必ず行く場所がある。キャンパスの北側にひっそりと建つ第三校舎。福音棟と呼ばれる白く小さなその校舎は、ミッション系のこの大学にふさわしく、まるで教会のような外観をしている。彼女はそこのイコンを見るのが好きなのだ。イコンとは、イエスキリストや聖人たちを表した絵画や彫刻のこと。
福音棟の玄関ホール、その中央には大理石のキリスト像が据えられている。台座を含めれば3メートルを超える堂々たるキリスト像だけれど、彼女のお気に入りはこれではない。薄暗い階段を上がり、二階と三階の踊り場にそれはある。いつもまばゆい光を放ちながら通りすがる人を出迎える、彼女の大好きな、悲しいピエタのステンドグラス。青い衣をまとったマリア様が、十字架から降ろされたイエスキリストの亡骸を抱いている絵柄。
初めてこの聖母子像と出会ったとき、息をするのを忘れるほど見入ってしまったのだと彼女は言う。ちょうど冬の夕暮れ時だったそうだ。精密に組み合わされた鮮やかな幾色ものガラスのパーツが、西空から降り注ぐオレンジ色の陽を吸収し変化させて、寒くて暗いはずの冬の階段を光の世界へと変えていた。
僕と彼女が知り合ったのも、彼女がこのピエタを眺めているときだった。秋の初め頃だったと思う。
「マリア様は泣いてるんでしょうか?」
偶然踊り場を通りがかった僕は、自分でも驚いたことに、唐突に疑問を投げかけていた。ピエタではなく、可憐な彼女の横顔に吸い寄せられて。彼女は人に話しかけられるのが随分久しぶりであるかのように肩を震わせてこちらを振り返った。
「岸本と言います」
僕は歯学部の3年生だと名乗った。芦沢ユリです、と彼女は細い声で言った。妹の加奈子と同じ文学部の2年生らしいが、面識はないと言う。
「綺麗ですよね」「好きなんです、このピエタが」
このときはほんの数分話しただけだったが、それ以降も僕は大学で度々彼女を見かけた。校舎の廊下、食堂のテラスやキャンパス内の小さい池で。僕が彼女に気付くとき、必ず彼女は独りだった。
ある日、またピエタの前で彼女を見つけた僕は、思い切ってデートに誘った。デートと言っても、キャンパスの広場を散歩したり、図書室に一緒に行ったり、競技場を走るランナーを遠くから眺めたりする、その程度のものだけど。何度かデートを重ねたわけだから、彼女は僕の好意に気付いてくれていたと思う。だけど嫌な顔一つせず、彼女は静かに僕の後ろを付いて歩いた。
「もっとイイ所でデートしたいけど、連絡先さえ教えてくれないから」「ごめんなさい」「僕のこと信用してない?」「そうじゃないの」「じゃ教えて。どこに住んでるの?」「……思い出せない」
「もうちょっとマシな嘘をついてよ」と僕は笑った。彼女は突然不安に襲われたように暗い顔をして「嘘じゃないの」と静かに言った。「朝も夜も、なぜずっと独りで学校にいるのか、分からない」その表情があまりに真剣で、僕の心にまでその不安は伝染した。「霞がかかっているみたいに、何もかも思い出せないの」
冬が深くなるにつれ、僕は体調を崩して大学を休みがちになった。ベッドで寝ていると、必ず彼女が夢に出てきた。僕は彼女に訊かなければならないことがあった。でも夢の中で彼女にいくら尋ねたところで、彼女は僕の質問に応えてはくれなかった。
朝から重たい雪が降り続いている日だった。僕は体調の悪いのをおして、彼女に会うために大学に行った。ピエタの前で、彼女は佇んでいた。
「本当のことを知りたい」と僕は言った。雪のせいで輝きを失っているステンドグラスを、彼女は一心に見つめていた。「妹が、芦沢ユリなんて生徒はいないって言うんだ」マリア様はその眼差しをイエスキリストの頬に優しく落としている。「それだけじゃない。桑原って奴が、僕がいつも独り言を話しながら歩いているって。気味が悪いぞって」呆然としている彼女の横顔は、透き通るほど白い。「そんなはずないんだよ、君といたはずなのに」その言葉を聞いて、彼女は唇をわずかに震わせ、そして「思い出した」と呟いた。彼女はそのとき自分の正体に気付いたのだと思う。おそらく、ずっと前にこの世界を旅立った者だと言うことに。
「私、もうここにはいないんだわ」
彼女はステンドグラスから差し込む温かい光に包まれて、スッと消えていなくなった。雪がやんだのか、踊り場はピエタから注ぐ光に満ちていた。僕の彼女への想いと同じように、しっかりとした彩りの、しかし決して掴むことのできない光が足元を照らしていた。
〈第14話「冬の階段」おわり〉
次回予告
第15話「春よ来いと言えなくて」3月5日(水)更新
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